渡部海の父親・達人が止めろと言った理由と親子で決めた1軍の約束

渡部海の父親・達人が止めろと言った理由と親子で決めた1軍の約束

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渡部海さんの父親がどんな人物なのか、名前や職業まで詳しく知りたいと感じている方は多いのではないでしょうか。

青山学院大学の主将として2026年ドラフト1位候補に挙がる捕手ですから、その原点を作った父親の存在が気になるのも当然ですよね。

結論からお伝えすると、父親の名前は達人さんで、大学まで野球を続けた経験を持つ人物です。

息子が中学生の頃にプロ野球選手になりたいと口にしたとき、それなら止めておこうと返した逸話も残っています。

この記事では父親・達人さんの人物像から親子で交わした約束まで、公開されている情報をもとに整理していきます。

記事のポイント

①:父親・達人は大学まで野球を経験

②:少年時代はクラブチームのコーチ

③:プロ志望に1軍レギュラーを提示

④:神宮の決勝3ランで頭が真っ白

渡部海の父親・達人の職業と人物像|約束の真意

  • 父親・達人は大学まで野球を経験
  • 少年野球のコーチを務めた父親
  • 止めておこうに込めた父の真意
  • 阪神のユニで保育園に通った頃
  • 神宮の決勝で頭が真っ白な父親
  • 寮生活で離れた親子の距離感

父親・達人は大学まで野球を経験

 
 
 
 
 
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まず、あなたが一番知りたいところから結論をお伝えします。

渡部海さんの父親は達人さんという名前で、大学まで野球を続けた経験を持つ人物です。

息子が物心つく頃にはもうバットとグラブを握らせていた、いわゆる野球一家の中心にいた父親ですね。

ここでは父親・達人さんについて公開されている情報がどこまであるのかを、あなたが納得できる形で整理していきます。

父親の名前は達人

結論から言うと、渡部海さんの父親の名前は達人さんです。

この名前が世の中に出たのは、2025年11月21日に公開されたウェブメディアのインタビュー記事でした。

明治神宮大会の大学の部で青山学院大学が連覇を達成した直後に、家族の視点から渡部海さんの歩みをたどった記事です。

その中で父親は一貫して父・達人さんという形で登場し、幼少期のエピソードから当日の心境までを自分の言葉で語っています。

一方で達人という名前の読み方までは公表されていません。

たつひとさんとも読めますし、たつとさんやさとしさんという読み方も考えられる表記ですよね。

公式に読みが出ていない以上、ここでは達人さんという表記のまま扱うことにします。

なお母親についても、名前や職業を含めて具体的な情報は一切公表されていません。

家族が報道に登場したのは明治神宮大会の応援に駆け付けた場面がほぼ唯一で、それ以外の露出はほとんど確認できない状況です。

息子が注目を集める一方で、家族自身は表に出すぎないという姿勢を保っているように見えます。

兄弟姉妹の有無についても、公開されている情報の中では確認できません。

家族提供として公開された写真が幼少期のものだったことから、記録を大切にしてきた家庭であることだけは伝わってきますよね。

大学まで野球を続けた経歴

父親・達人さんの野球歴については、渡部海さん本人の口から語られています。

野球を始めたきっかけを聞かれた際、渡部海さんは父が大学まで野球をやっていて、それで自分にもやらせたかったようですと答えました。

続けて、物心つく頃には既に野球をやっていましたとも話しています。

つまり達人さんは少なくとも大学の硬式野球部まで現役を続けた経験者だったわけですね。

どの大学でどのポジションを守っていたのかは明らかになっていません。

ただ、小学生の息子に対して本格的に野球を教えられるだけの技術と知識を持っていたことは、その後のエピソードからも読み取れます。

日本の学生野球で大学まで続けるというのは、競技人口のピラミッドを考えればかなり絞られた層に入ります。

高校で区切りをつける選手が圧倒的に多い中で、4年間さらに競技を続けた人物が家庭にいたことになります。

渡部海さんが小学1年から捕手一本で育ったのも、父親がポジションの重みを理解していたからだと考えると納得できますよね。

肩が強かったから捕手になったのかもしれないと本人は振り返っていますが、その見立てをできる大人が身近にいたことは大きかったはずです。

野球経験のある親が家庭にいるかどうかで、幼少期の伸び方が変わるというのはよく語られる話です。

職業や年齢は非公表のまま

ここ、気になるポイントだと思います。

達人さんの職業については、現時点で公表された情報がありません。

インタビューで語られたのはあくまで父親としての立場からのコメントで、勤務先や肩書きには一切触れられていないんですよね。

小学生時代の息子が所属したクラブチームでコーチを務めていたという記述はありますが、これは職業ではなく地域の指導活動と考えるのが自然です。

年齢についても公表されていません。

渡部海さんが2004年8月20日生まれで、現在22歳ですから、一般的な親子の年齢差から逆算すれば50代前後と推測はできます。

ただ、推測を事実のように書くことはできませんので、ここでは非公表という扱いにとどめます。

父親の情報がここまで限定的なのは、渡部海さんがまだアマチュア選手だからという事情も大きいでしょう。

プロ入り後は家族の取材機会が増えますので、今後あらためて語られる場面も出てくるはずです。

プロ野球選手の家族がメディアに登場する場面は、入団会見や初出場の日に集中する傾向があります。

渡部海さんがドラフト1位候補として注目されている以上、その日は近いと考えていいでしょう。

新しい情報が出た段階で、この記事も更新していきます。

父親の情報を表で整理

下記の表は父親・達人さんについて確認できている情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 渡部達人(読みは非公表)
続柄 渡部海の父親
野球歴 大学まで現役を続けた経験者
指導歴 息子が小学生時代のクラブチームでコーチ
職業 公表なし
年齢 公表なし
応援したプロ球団 阪神タイガース
メディア登場 2025年11月の明治神宮大会連覇後の取材

表にすると、公表されている情報が名前と野球歴に集中していることがよく分かりますよね。

職業や年齢といった一般的なプロフィール項目が空欄になるのは、アマチュア選手の家族としては自然な状態です。

続いて、息子である渡部海さんの基本情報も確認しておきましょう。

項目 内容
名前 渡部海(わたべ かい)
生年月日 2004年8月20日
2026年10月11日現在の年齢 22歳
出身地 大阪府大阪市
身長 180cm
体重 92kg
投打 右投右打
ポジション 捕手
所属 青山学院大学(主将)
遠投 100m
50m走 6秒4
二塁送球 1秒85
経歴 遠里小野小/大和川中/智辯和歌山高/青山学院大

身長180cmで体重92kgという体格は、捕手としては申し分のないサイズです。

二塁送球1秒85という数字も、プロのスカウトが真っ先に確認する項目のひとつですね。

父親の輪郭が少し見えてきたところで、次は指導者としての顔を掘り下げていきます。

少年野球のコーチを務めた父親

では、達人さんは息子にどんな関わり方をしていたのでしょうか。

答えは指導者という立場での関わりでした。

渡部海さんが小学生だった時期、達人さんはクラブチームのコーチを務めていたと報じられています。

ここでは父親がどんな指導観を持っていたのかを、本人の発言から読み解いていきます。

クラブチームでコーチを務めた日々

結論から言うと、達人さんは息子のすぐ近くで野球を教える立場にいました。

渡部海さんの小学生時代の所属は大阪ゴールデンファイヤーという軟式のクラブチームです。

通っていたのは大阪市立遠里小野小学校で、小学1年の時からこのチームで捕手として野球を始めました。

達人さんがコーチを務めていたのは、まさにこの時期と重なります。

つまり父親がベンチにいるチームで息子がマスクを被っていたという構図ですね。

親子で同じユニフォームの輪の中にいた時間が、小学校の6年間にわたって続いたことになります。

捕手というポジションは配球や守備位置の指示を含めて覚えることが多く、小学生には負荷の高い役割です。

そこに大学まで野球を続けた父親が付いていたのは、技術面でも精神面でも相当なアドバンテージだったはずです。

本人は自分でやりたいと言ったのか、やれと言われたのかは覚えていませんと振り返っています。

そのうえで、肩が強かったから、というのはあるかもしれませんと付け加えました。

小学1年の子どもに捕手を任せるチームはそう多くありませんので、肩の強さは当時から際立っていたのでしょう。

父親がコーチとして近くにいたからこそ、その素質を早い段階で見抜けたとも考えられます。

僕の役割は嫌いにさせないこと

達人さんの指導観を示す言葉が残っています。

小学生時代の息子について、達人さんは自分が子どもの時よりも上手かったと振り返りました。

そして続けたのが、僕の役割は野球を嫌いにならないようにするだけでしたという一言です。

これ、指導者として相当に成熟した考え方ですよね。

自分より上手い子どもを前にして、技術を叩き込むのではなく競技への愛情を守ることを役割に定めたわけです。

少年野球の現場では、熱心な親が結果を求めすぎて子どもが競技から離れてしまう例が珍しくありません。

達人さんの言葉は、その落とし穴を最初から避けようとする意識の表れだと読み取れます。

結果として渡部海さんは小学校から大学まで一度も捕手を離れず、競技を続けました。

中学では住吉ボーイズで硬式に移り、大阪市立大和川中学校に通いながらレベルを上げていきます。

中学3年の秋にはU-15日本代表に選ばれ、アジアチャレンジマッチで優勝を経験しました。

野球を嫌いにさせないという父親の方針が、結果として代表入りまで届いたことになります。

結果を求めて追い込むのではなく、続けられる環境を守るという発想ですね。

この距離感の取り方は、少年野球に関わる保護者にとって参考になる部分が多いはずです。

家族の影響で阪神ファンになった

渡部海さんが野球を始めたきっかけには、もうひとつ家族の要素があります。

日本代表のアンケートで野球を始めたきっかけを聞かれ、本人は阪神タイガースのファンで家族の影響と回答しました。

高校3年時の別のアンケートでも、阪神タイガースが好きだったからと答えています。

つまり競技との出会いそのものが家族の阪神愛から始まっていたわけですね。

大阪市で育った家庭ですから、阪神が日常にあったというのは自然な流れでしょう。

父親が大学まで野球を続けた人物ですから、家庭内でプロ野球の話題が絶えなかったことも想像できます。

なお野球を始めた年齢について、本人の回答は時期によって少し違います。

高校3年時のアンケートでは6歳で、大学3年時のアンケートでは7歳頃と答えました。

どちらも小学校入学前後にあたりますので、遊びから競技へ移った境目の受け取り方の差だと考えられます。

いずれにしても、小学校に上がる前から野球が生活の中心にあったことは間違いなさそうです。

大阪市内の家庭で阪神の試合が日常的に流れていた環境だったと考えると、自然な導入ですよね。

父親が大学まで野球を続けた経験者ですから、テレビの前での解説役も務めていたかもしれません。

少年時代の歩みを時系列で整理

ここまでの情報を時間軸に沿って並べると、親子の関係がより立体的に見えてきます。

以下の表で父親と過ごした少年時代の流れを整理してみます。

時期 所属・出来事 父親の関わり
就学前 阪神のユニフォームで保育園に通う 家族の影響で阪神ファンに
小学1年 大阪ゴールデンファイヤーで捕手として開始 クラブチームのコーチを務める
小学校時代 休日は公園で野球をねだる日々 相手役として付き合う
中学時代 住吉ボーイズで硬式に移る プロ志望に1軍の目標を提示
中学3年秋 U-15日本代表でアジアチャレンジマッチ優勝 目標設定の成果が形に
高校進学後 智辯和歌山の寮生活が始まる たまにしか会えない距離に

こうして並べてみると、父親の関わり方が時期ごとに明確に変化していることが分かります。

就学前は環境を用意する役割、小学生時代は直接教える役割、中学生時代は目標を設定する役割でした。

そして高校以降は見守る役割に移っていきます。

子どもの成長段階に応じて関与の度合いを下げていく形は、指導者としても理想的な引き方ですよね。

渡部海さんが大学で主将を任されるまでに育ったのは、この段階的な手放しがあったからだとも考えられます。

次は親子の関係を語るうえで欠かせない、あの言葉の真意に踏み込みます。

止めておこうに込めた父の真意

ここが父親・達人さんを語るうえで最も有名な場面です。

中学生だった渡部海さんがプロ野球選手になりたいと告げたとき、達人さんはそれなら止めておこうと返しました。

一見すると夢を否定したようにも聞こえる言葉ですが、真意はまったく別のところにありました。

ここでは親子で交わしたやり取りの中身を、公開されている取材内容をもとに段階を追って整理していきます。

プロ野球選手になりたいの一言

話の出発点は、渡部海さんが中学生だった頃に掲げた目標でした。

住吉ボーイズで硬式野球に取り組み、全国の強豪と対戦する中で実力に自信を持ち始めた時期です。

この段階で渡部海さんは、はっきりとプロ野球選手になりたいと口にしました。

小学校から捕手を務め、父親が指導者として近くにいた環境で育った少年の、ごく自然な宣言だったはずです。

実際にこの頃の渡部海さんは、中学3年の秋にU-15日本代表へ選出されるレベルにありました。

侍ジャパンのユニフォームでアジアチャレンジマッチに出場し、チームは優勝を飾っています。

同じ代表に選ばれた捕手には玉城陽希さんや宮原慶太郎さんが名を連ね、外野手には海老根優大さんや井坪陽生さんもいました。

全国の同世代トップが集まる環境に身を置いた中学生が、プロを目指すと言い出すのは当然の流れですよね。

ところが父親から返ってきたのは、息子が想定していた反応ではありませんでした。

褒めてもらえると思って口にした夢が、思わぬ形で跳ね返ってきたわけですね。

ここ、中学生だった本人にとってはかなり面食らう瞬間だったはずです。

この場面での達人さんの返答が、親子の目標設定を大きく変えることになります。

止めておこうという返事の意味

結論から言うと、達人さんの返事はつれないものでした。

プロ野球選手になりたいという息子に対し、それなら止めておこうと告げたのです。

夢を語った中学生にとっては、冷や水を浴びせられたように感じる言葉だったでしょう。

ただ、この言葉を単独で切り取ると意図を完全に読み違えます。

達人さんの真意は、プロ野球選手になるという目標そのものの解像度の低さを突くところにありました。

プロ野球選手になるという表現には、支配下登録されれば達成という解釈も含まれてしまいます。

ドラフト指名を受けた時点で夢が終わってしまう設定では、その先が描けないという指摘だったわけです。

大学まで野球を続けた父親だからこそ、プロの世界の厳しさを現実的に捉えていたとも言えます。

日本のプロ野球では毎年多くの選手が入団し、同じくらいの数の選手がユニフォームを脱いでいきます。

入ることがゴールになれば、その後の数年で消えていく可能性が高いことを見据えていたのでしょう。

支配下登録される選手は毎年100人規模ですが、1軍に定着できる選手はその一部にとどまります。

大学まで競技を続けた人物として、この構造を肌で理解していたのだと思います。

だからこそ、夢の表現そのものを作り直させる必要があったわけですね。

NPBの1軍レギュラーになろう

そして達人さんが示した代替案が、親子の進路を決定づけました。

達人さんが続けたのは、やるならNPBの1軍のレギュラーになろうという言葉です。

目標を明確にして、なおかつ一段高いところへ置き直したわけですね。

プロになるという曖昧な到達点を、1軍で定位置を確保するという測定可能な到達点に書き換えたことになります。

この設定変更には実務的な意味が3つあります。

ひとつ目は、入団後の数年間も努力の対象に含まれるという点です。

ふたつ目は、捕手というポジションで定位置を取るという具体性が加わる点です。

3つ目は、ドラフト順位が目的ではなく手段に変わるという点ですね。

実際に渡部海さんは後年、大学4年間をやり切って、ドラフト1位でプロに行くと語りました。

そのうえで、そこで活躍できるように下積みをしていきたいと続けています。

父親が中学生の息子に提示した枠組みが、そのまま本人の言葉として定着していることが分かりますよね。

ドラフト1位という表現が目的ではなく、その先の活躍を見据えた手段として語られている点が重要です。

中学生の時に交わした約束が、10年近く経っても判断の基準として機能していることになります。

目標設定ひとつで進路の選び方まで変わるという、分かりやすい実例ですよね。

親子の目標設定を対比で整理

ここまでのやり取りを整理すると、父親が何を変えたのかがはっきり見えてきます。

下記の表は親子のやり取りで目標がどう書き換わったのかをまとめたものです。

項目 息子が掲げた目標 父親が示した目標
表現 プロ野球選手になりたい NPBの1軍のレギュラーになる
到達点 ドラフト指名を受けた時点 1軍で定位置を確保した時点
時間軸 高校・大学までの努力 プロ入り後も続く努力
測定方法 入団できたかどうか 出場機会と定位置の有無
父親の返答 それなら止めておこうという一言から始まった

表で並べると、変わったのは夢の大きさではなく夢の定義だったことが分かりますよね。

プロになるという表現を1軍で定位置を取るという表現に置き換えただけで、必要な努力の総量が一気に増えます。

そして測定方法が出場機会に変わることで、入団後も評価が続く設計になりました。

この書き換えを中学生の段階で済ませていたことが、渡部海さんの強さの根っこにあると言えます。

実際に本人は大学4年間を終える前から、プロ入り後の下積みという言葉を自然に使っていました。

ここ、親として相当に腹の据わった対応だと思いませんか。

この約束が交わされた背景には、もっと前の幼少期からの積み重ねがあります。

阪神のユニで保育園に通った頃

時計をもう少し巻き戻してみましょう。

渡部海さんの幼少期は、毎日のように阪神のユニフォームやTシャツを着て保育園に通うという徹底した野球漬けの日々でした。

この頃の相手役を務めていたのが、父親・達人さんです。

ここでは幼少期のエピソードを通して、親子の距離がどれだけ近かったのかを具体的に見ていきます。

阪神のユニで登園した保育園時代

まず、幼少期の服装の話から入らせてください。

大阪市で生まれた渡部海さんは、保育園に通う年齢の時点でもう完全な野球少年でした。

登園時に着ていたのが、阪神タイガースのユニフォームやTシャツだったと伝えられています。

それも時々ではなく、毎日のように阪神のウェアを身につけていたというのですから徹底していますよね。

この時期のエピソードは、2025年11月に家族提供の写真とともに紹介されました。

阪神ファンの家庭で育った子どもが、そのまま球団のウェアを日常着にしていたという構図です。

前述の通り、渡部海さんは野球を始めたきっかけを阪神タイガースのファンで家族の影響と語っています。

保育園での服装は、その家族の影響がどれほど濃かったのかを示す分かりやすい証拠だと言えます。

なお本人が所属してきたチームは軟式のクラブチームから硬式のボーイズリーグへと進みます。

軟式から硬式への移行は中学時代で、ここで本格的な競技環境に入ったことになります。

保育園での服装から数えると、競技に触れていた期間はすでに20年近くに達しています。

阪神のユニフォームを着た園児が、20年後にドラフト1位候補の捕手になったという流れですね。

ここ、改めて振り返るとなかなか出来すぎた話ですよね。

公園で野球しようとねだった休日

幼少期の親子の過ごし方も具体的に語られています。

休みの日になると、渡部海さんは父親・達人さんに野球しよう、野球しようとねだったそうです。

行き先は公園で、父親が相手役を務めました。

この言い方が繰り返しになっているところに、子どもの熱量がそのまま表れていますよね。

達人さんは大学まで野球を続けた経験者ですから、公園での相手役としては申し分のない人物です。

キャッチボールひとつでも、送球の回転や捕球の形を自然に伝えられる立場だったはずです。

前述の通り、達人さんは僕の役割は野球を嫌いにならないようにするだけでしたと語っていました。

休日の公園という場は、まさにその方針を実践する舞台だったと考えられます。

練習ではなく遊びとして野球に触れ続けた時間が、競技への執着を支えたわけですね。

結果として渡部海さんは、小学1年から大学4年まで一度も捕手を離れませんでした。

厳密には高校1年秋から2年春にかけて三塁手で起用され、代表でも三塁を守った時期があります。

ただチームでの本職は一貫して捕手で、自分の役割として手放したことは一度もありません。

これだけ長く同じポジションを続けられたのは、最初の入り口が楽しさだったからでしょう。

休日に公園へ出かけていた父子の時間が、その土台を作ったことになりますよね。

憧れの選手はいないという答え

ここ、少し意外に感じる部分かもしれません。

これだけ阪神愛が濃い家庭で育った渡部海さんですが、代表チームのアンケートであこがれ・目標とする野球選手を聞かれた際の回答はなしでした。

特定の選手を手本にせず、自分の形を追う姿勢がうかがえる答えですね。

この回答は2025年の日米大学野球選手権に臨む際のものです。

一方で、高校時代には思いがけない形で大物と接点を持っていました。

智辯和歌山の練習にイチローさんが訪れ、渡部海さんはバッティングについて直接話を聞いています。

その際にイチローさんから、ずっと見ていると声をかけられたそうです。

本人はそこから交流はありませんがと前置きしつつ、自分の活躍がイチローさんの耳にも届くようにこれからも頑張りたいと語りました。

憧れの選手を挙げないタイプでありながら、こうした言葉はしっかり胸に置いている選手なんですね。

父親が植え付けた野球への純粋な興味が、誰かの真似ではなく自分の形を探す姿勢に育ったとも読み取れます。

ちなみに実際に対戦して一番すごいと思った選手として挙げたのは、大学1年秋に対戦した中央大の西舘投手でした。

憧れは作らないものの、目の前の相手は正確に評価するタイプだということが分かります。

幼少期のエピソードを整理

ここまでの幼少期の情報を、一度まとめて確認しておきましょう。

以下の表で幼少期に関する情報をまとめてみます。

項目 内容
出身地 大阪府大阪市
保育園時代の服装 阪神タイガースのユニフォームやTシャツ
休日の過ごし方 公園で父親・達人と野球
野球を始めた年齢 6歳から7歳頃と本人が回答
始めたきっかけ 阪神ファンで家族の影響
最初のチーム 大阪ゴールデンファイヤー(軟式)
最初のポジション 捕手(小学1年から一貫)
憧れの選手 なしと回答

こうして並べると、幼少期の渡部海さんを作った要素がすべて家庭の中にあったことが分かります。

阪神を好きになったのも、捕手を始めたのも、練習相手を得たのもすべて家族経由でした。

父親が特別な英才教育を施したという話は出てきません。

やっていたのは、好きなことを続けられる環境を崩さないという地味な作業だけです。

それでも結果として、大学日本代表の主将を務める捕手が育ちました。

大阪市という土地で阪神のユニフォームを着た園児は、当時それほど珍しい存在ではなかったはずです。

その中から本当にプロの入口まで辿り着いた一人が渡部海さんだったわけですね。

幼少期の関わり方について、少しイメージが湧きやすくなれば嬉しいです。

続いて、父親が息子の活躍を目の前で見た忘れられない1日を振り返ります。

神宮の決勝で頭が真っ白な父親

2025年11月、父親・達人さんにとって忘れられない1日が訪れます。

明治神宮大会の大学の部決勝で、渡部海さんが0対0の6回に決勝の左越え3ランを放ったのです。

その瞬間をスタンドで見ていた達人さんは、興奮して一瞬頭が真っ白になりましたと振り返りました。

ここでは父親の目線から見たあの決勝を、試合の流れとともに整理していきます。

家族で駆け付けた神宮大会決勝

2025年11月、明治神宮大会は14日から6日間の日程で開催されました。

大学の部の決勝に進んだのは、東都大学リーグ代表の青山学院大学と関西5連盟第2代表の立命館大学です。

この試合に、渡部海さんの家族が応援に駆け付けていました。

父親・達人さんがスタンドにいたことは、試合後の取材で明らかになっています。

当時の渡部海さんは3年生で、翌年のドラフト1位候補として注目を集め始めた時期でした。

前述の通り、達人さんは息子が高校に進んでからは寮生活で離れて暮らしています。

その父親が神宮球場まで足を運んだわけですから、この一戦にかける思いは相当なものだったでしょう。

試合は青山学院大学の先発投手陣が立命館大学打線を抑え込み、投手戦の展開になります。

マスクを被る渡部海さんは1学年上の中西聖輝さんとバッテリーを組み、リードで試合を作りました。

両校が得点を奪えないまま、試合は中盤へ入っていきます。

青山学院大学はこの大会で2年連続2度目の優勝を狙う立場でした。

対する立命館大学は関西5連盟の第2代表として勝ち上がってきたチームです。

大学の部の決勝という舞台ですから、球場の空気も相当に張り詰めていたはずです。

父親としては、息子の打席が回ってくるたびに息を詰める時間だったでしょう。

祈る思いで見ていたという心境

0対0という緊迫した展開の中で、達人さんはどんな気持ちで見ていたのでしょうか。

本人が語った心境は、犠牲フライでも何でもいいから点を取ってくれたらというものでした。

そして続けたのが、祈る思いで見ていましたという一言です。

ここ、親の立場としてすごくリアルな感覚ですよね。

ホームランを期待するのではなく、どんな形でもチームに1点が入ればいいという願いだったわけです。

この時の渡部海さんは4番打者としてこの試合に臨んでいました。

大学3年秋の時点で、すでに打線の中心を任される存在になっていたことになります。

ただ、決勝という舞台で4番が背負う重さは数字以上のものがあります。

父親の願いが控えめだったのは、息子が置かれた立場の重さを理解していたからでしょう。

自分も大学まで野球を続けた人物ですから、投手戦で4番が感じる重圧は想像できたはずです。

打てなければ負ける可能性があり、打てば一気に優勝が近づくという局面でした。

ホームランを期待する言葉を避けたのは、過度な期待を自分に課さないための自制だったとも読めますよね。

この慎重さが、直後の出来事をより劇的なものにしました。

そして試合は0対0のまま、6回の攻撃を迎えました。

一瞬頭が真っ白になった3ラン

その瞬間は6回1死の場面で訪れます。

二塁三塁という絶好のチャンスで、4番の渡部海さんが打席に立ちました。

カウントは3ボール2ストライクまで進み、最後の1球は内角低めのスライダーでした。

この球を振り抜いた打球は放物線を描き、左翼席へ届く先制3ランになりました。

本人は打席を振り返り、最後に自分の得意な球がきたと語っています。

打球の感触についても、手ごたえは良くて、行くかなという感じで走っていましたと表現しました。

右手を突き上げてダイヤモンドを一周した3ランが、そのまま決勝点となります。

試合は4対0で青山学院大学が勝利し、史上6校目となる連覇を達成しました。

中西聖輝さんとのバッテリーは17奪三振での完封を記録しています。

この優勝で渡部海さんは、高校と大学を通じて5度目の日本一に到達しました。

スタンドの達人さんは、想像を遥かに超える活躍ですねと声を弾ませました。

そのうえで、興奮して、一瞬頭が真っ白になりましたと当時の感覚を明かしています。

祈る思いで犠牲フライを願っていた父親の前で、息子は3ランを放ったわけです。

想像を遥かに超えるという表現が、まさにそのままの意味で使われた場面でした。

ここ、親の立場で考えると一生忘れられない瞬間ですよね。

決勝の流れを表で整理

ここまでの流れを一度表で確認しておきましょう。

下記の表は決勝の要点をまとめたものです。

項目 内容
大会 明治神宮大会 大学の部(2025年11月)
対戦 青山学院大学 対 立命館大学
結果 4対0で青山学院大学が勝利
渡部海の打順 4番・捕手
決勝打 6回1死二塁三塁から左越え3ラン
打った球種 内角低めのスライダー
バッテリー 中西聖輝と組んで17奪三振完封
チームの記録 史上6校目の連覇・2年連続2度目の優勝
本人の日本一 高校大学通算で5度目

表で整理すると、この1試合に複数の記録が重なっていたことが分かります。

チームとしては史上6校目の連覇で、本人としては5度目の日本一でした。

さらにバッテリーを組んだ中西聖輝さんは、この年のドラフトで中日から1位指名を受けています。

同じ大会には、横浜DeNAからドラフト1位指名を受けた小田康一郎さんも出場していました。

プロ入り直前の4年生たちと最後に戦った舞台で、3年生の渡部海さんが決勝打を放ったことになります。

この大会を終えて4年生が抜けた後、最上級生としてチームを率いる立場になりました。

渡部海さんにとって、家族が応援に来た試合で結果を出せたのは初めてに近い経験だったはずです。

高校時代は寮生活で、甲子園の優勝も無観客開催の中での達成でした。

息子が語った恩返しの言葉

試合後、渡部海さんは家族への思いを口にしました。

語ったのは、家族は常に支えてくれているので恩返しがしたいという言葉です。

そして、良い結果が出せたのでよかったと続けました。

この一言に、親子で積み上げてきた時間の重さが凝縮されていますよね。

幼少期は公園で相手役を務め、小学生時代はクラブチームでコーチを務めた父親がスタンドにいました。

中学生の頃に1軍のレギュラーという目標を示した父親が、大学日本一の瞬間を見届けたことになります。

恩返しという言葉が選ばれたのは、支えられた実感が本人の中に明確にあったからでしょう。

この決勝を終えた渡部海さんは、翌シーズンに向けて4冠という目標を掲げました。

春秋のリーグ戦、全日本大学野球選手権、明治神宮大会をすべて制するという設定です。

父親が示した一段高い目標設定の考え方が、本人の目標の立て方にもしっかり根付いていることが分かります。

なお2026年春はリーグ連覇が6で止まり、掲げた4冠の目標は序盤でつまずきました。

本人は序盤は幸先良く4連勝できましたが、3カード目で勝ち点を落としてしまい、そこから歯車が狂いましたと振り返っています。

経験の浅いチームだったので、途中から立て直すことができなかったのが反省点ですとも語りました。

家族に恩返しをしたいという思いは、最終学年で別の形の宿題に変わったわけですね。

寮生活で離れた親子の距離感

ここで気になるのが、親子が今どれくらいの頻度で会っているのかという点ですよね。

答えは意外にも、たまにしか会わないという距離感でした。

高校進学と同時に始まった寮生活が、親子の物理的な距離を一気に広げたのです。

ここでは離れて暮らす親子がどんな関係を保っているのかを、父親の言葉から読み解いていきます。

高校進学で始まった寮生活

渡部海さんは大阪府大阪市で育ちましたが、高校は和歌山県の智辯和歌山に進学しました。

府県をまたいだ進学ですから、当然ながら自宅から通える距離ではありません。

そのため高校入学の時点から寮に入って生活することになりました。

智辯和歌山は多くのプロ野球選手を輩出してきた強豪校です。

本人は大阪出身で元々智辯和歌山が好きだったと進学理由を語っています。

加えて、同じ捕手出身である中谷仁監督の存在が大きかったと明かしました。

中谷監督が就任したのは渡部海さんが中学2年の時期で、キャッチャーとしてプロに行くために監督に教わりたいという気持ちから進学を決めたそうです。

つまり中学生で父親と1軍レギュラーの約束を交わした直後に、学ぶ相手まで自分で選んでいたことになります。

その選択の代償が、家族と離れた寮生活だったわけですね。

大学も東京の青山学院大学に進みましたので、高校から大学卒業まで8年間にわたって実家を離れた生活が続いています。

大阪市から和歌山、そして東京へと生活の拠点が移っていったことになります。

中学生の時に父親と交わした約束を実現するために、自分で選んだ環境でした。

ここ、進路を考えている中学生とその家族にとっては考えさせられる部分ですよね。

この8年間が、親子の関係を大きく変えていきます。

たまにしか会わないという言葉

この距離感について、達人さん自身がはっきり語っています。

達人さんの言葉は、高校の時から寮に入っているので、たまにしか会わないですけどというものでした。

親の立場としては寂しさも含んだ表現ですよね。

小学生時代はクラブチームのコーチとして毎週顔を合わせ、休日は公園で一緒に野球をしていた関係です。

その密度から一転して、年に数回の帰省でしか会えない関係に変わったことになります。

ただ、この変化を達人さんは否定的には語っていません。

離れて暮らす息子について、真面目に頑張ってくれているなと思いますと続けたのです。

会う頻度が減っても、取り組みの姿勢は伝わっているという評価ですね。

実際に渡部海さんは高校2年夏に甲子園優勝、大学では1年春から正捕手という実績を積み上げました。

結果が出ているからこその評価ですが、それ以上に日々の姿勢を信頼している響きがあります。

真面目に頑張ってくれているなという言い方には、過度な干渉を避ける姿勢が表れています。

技術的な指摘や進路への口出しではなく、取り組みそのものを認める言葉を選んでいるんですよね。

小学生時代にコーチとして近くにいた人物が、高校以降は完全に見守る側に回ったことになります。

この切り替えができる保護者は、実はそれほど多くないのではないでしょうか。

距離が生んだ自立と主将経験

親子の距離が広がった期間に、渡部海さんは組織をまとめる立場を経験していきます。

大学4年の春からは青山学院大学の主将に就任しました。

さらに2026年夏の国際大会では、大学日本代表の主将も務めています。

大学と日本代表の両方で、チームを引っ張る立場に立ったことになります。

主将という役割について、本人は大変だと感じたことはありませんと語りました。

一方で、経験の少ない下級生に対して少し任せすぎてしまったなと感じるところはありますと反省も口にしています。

そのうえで、もっと言うべきところは言った方が良かったと反省し、リーグ戦の後からはその点に気をつけるようにしていますと続けました。

この自己評価の精度の高さは、寮生活で培われた自立の産物とも言えそうです。

父親が近くにいない環境で8年間を過ごし、自分で課題を見つけて修正する習慣が身についたのでしょう。

野球を嫌いにさせないことだけを役割にした父親の方針が、結果として自走できる選手を育てたことになります。

大学と日本代表の両方で主将を任されたという事実が、人間性への評価の高さを示しています。

オリックスのスカウトが人間性も含めて期待している選手と語ったのも、この積み重ねを見ているからでしょう。

親子の関わり方を時期別に整理

親子の距離の変化を、時期ごとに並べて確認しておきましょう。

以下の表で時期ごとの親子の関わり方を整理してみます。

時期 居住環境 父親との関わり
就学前 大阪市の自宅 阪神ファンの家庭で野球に触れる
小学生時代 大阪市の自宅 クラブチームのコーチとして毎週
中学生時代 大阪市の自宅 1軍レギュラーという目標を共有
高校3年間 智辯和歌山の寮 たまにしか会わない距離に
大学4年間 東京で生活 試合の応援でスタンドから見守る

表で見ると、直接指導する期間は小学校の6年間に集中していたことが分かります。

中学生時代は目標を共有する関係に変わり、高校以降は会う頻度そのものが落ちました。

それでも神宮球場のスタンドには足を運び、息子の決勝打を目撃しています。

関わり方の形を変えながら、関心だけは一度も途切れていないということですね。

ここまでが父親・達人さんを巡る情報の全体像です。

続いて、その父親が見守ってきた渡部海さん自身の歩みを詳しく追っていきます。

渡部海が父親と築いた野球人生|家族の支え

  • 智辯和歌山で掴んだ甲子園優勝
  • 中谷仁監督に学んだ捕手の責任
  • 青学大で成し遂げた6連覇
  • 日の丸を背負った4度の代表歴
  • 打撃が覚醒した4年目の数字
  • スカウトが絶賛する勝てる捕手

智辯和歌山で掴んだ甲子園優勝

父親と1軍レギュラーの約束を交わした少年は、高校でいきなり大きな実績を手にします。

2年夏の甲子園で正捕手として21年ぶりの全国制覇を経験したのです。

ここでは智辯和歌山での3年間を学年ごとに追いながら、どんな数字を残したのかを整理します。

高校時代の歩みを知ると、父親が示した目標が決して背伸びではなかったことが見えてきますよね。

1年夏からベンチ入りした日々

渡部海さんの高校生活は2020年に始まりました。

智辯和歌山では1年生の夏からベンチ入りを果たしています。

和歌山県大会の準々決勝で8番・捕手として初スタメンを飾り、初打席では遊撃手のグラブを弾く左前打を放ちました。

1年生が夏にベンチ入りするだけでも強豪校では難しいことですから、入学当初から評価されていたことが分かります。

1年秋の予選からは1番・三塁手で主力に定着しました。

この時期は捕手ではなく三塁手として打線の先頭に置かれていたんですね。

秋の近畿大会では2試合で7打数3安打、打率.429を記録しています。

そして2年生の春から、下位打線で本職の捕手を務めるようになりました。

学年が上がるにつれてポジションと打順が変化していったことになります。

この柔軟さが後に代表チームでの起用にもつながっていきます。

高校3年時のU-18ワールドカップでは、実際に三塁手として起用されることになります。

高校1年秋の経験があったからこそ、代表でも内野を任されたという見方ができますよね。

ちなみに智辯和歌山は多くのプロ野球選手を輩出してきた全国屈指の強豪校です。

その環境で1年生の夏にベンチ入りし、県大会でスタメンを掴んだというだけでも異例の早さでした。

2年夏に21年ぶりの全国制覇

2021年の夏、渡部海さんは甲子園で全国デビューを果たします。

6番・捕手として出場し、チームは21年ぶりの全国制覇を達成しました。

個人成績は15打数6安打で打率.400、1本塁打3打点という内容です。

出塁率.500、長打率.733という数字は、2年生の捕手としては破格と言っていいでしょう。

決勝では奈良の智辯学園と対戦し、甘く入った直球を捉えて左翼席へソロ本塁打を放ちました。

兄弟校同士の決勝という独特の舞台で、打撃でも結果を残したことになります。

守備面の数字も見事でした。

1学年上の中西聖輝さんらとバッテリーを組み、36回で7失点、防御率1.00という内容で投手陣を支えています。

仕掛けられた二塁盗塁3度のうち2度で補殺を奪い、到達タイム1秒90を計測しました。

本人は野球人生で一番うれしかったこととして、夏の甲子園優勝を挙げています。

ただこの大会はコロナ禍の影響で無観客開催となり、スタンドに家族はいませんでした。

本人も観客が入った中でもう一度やりたいという気持ちは強かったですと振り返っています。

父親が息子の大舞台を直接見届けるまでには、もう少し時間が必要だったわけですね。

父親に1軍レギュラーを目標として示されてから、わずか数年での全国制覇でした。

3年夏に味わった初戦敗退

一方で、最終学年の夏は悔しさが残る形で終わります。

3年春の近畿大会では打率.500をマークし、報徳学園との準決勝を制して16年ぶりの優勝を果たしました。

報徳学園戦では1対1の3回1死二塁三塁から左前へ勝ち越し打を放っています。

ただ守備では3盗塁を許し、どんどん走ってくるチームということはわかっていた、まだまだ実力不足と反省も口にしました。

3年夏の和歌山大会では5試合で9安打8四死球、打率.600・3本塁打7打点という驚異的な数字を残します。

準々決勝の日高中津戦で左越え3ラン、決勝の桐蔭戦では左中間へのソロと左翼への2ランを放ちました。

チームは5大会連続26度目の甲子園出場を決めています。

ところが甲子園の初戦となる2回戦で、栃木の國學院栃木に3対5で敗退しました。

この試合で渡部海さんは中前打と左前打の2安打を放ち、4回裏と8回裏の守りで二盗を刺しています。

本人は野球人生で一番悔しかったこととして、夏の甲子園一回戦敗退を挙げました。

本人の弁では、出場校として49番目の一番遅い登場ということもあって試合までの調整が難しく、チームも自分も力を出し切ることができなかったそうです。

この悔しさが、大学進学という選択の後押しにもなっていきました。

高校時代の成績を表で整理

高校3年間の成績を、大会ごとに並べて確認してみましょう。

下記の表は高校時代の公式戦成績をまとめたものです。

大会 試合 打率 本塁打 打点
2020年秋 近畿大会 2 .429 0 1
2021年春 近畿大会 2 .500 0 0
2021年夏 和歌山大会 5 .188 0 5
2022年春 近畿大会 3 .500 0 0
2022年夏 和歌山大会 5 .600 3 7
通算 17 .423 4 15

通算打率.423という数字は、県大会と近畿大会で安定して打ち続けた結果です。

特に最終学年の夏は打率.600と突出しており、完成度の高さが見えますよね。

続いて甲子園での成績も確認しておきましょう。

大会 打順 打率 本塁打 結果
2021年夏 6番・捕手 .400 1 全国制覇
2022年夏 3番・捕手 .400 0 2回戦敗退
甲子園通算 - .400 1 20打数8安打

なお高校通算本塁打は38本に達しています。

練習試合を含めた数字ですが、捕手としては破格の長打力だと言えます。

二塁送球のタイムも高校時代から計測されており、2021年夏の甲子園決勝では1秒90を記録しました。

2022年夏の甲子園2回戦では1秒99という数字も残しています。

強肩強打という評価が、高校時代からすでに定着していたことが分かりますね。

中谷仁監督に学んだ捕手の責任

渡部海さんの捕手としての土台は、高校時代の師から受け継いだものです。

その人物が、智辯和歌山で指揮を執った元プロ野球選手の中谷仁監督でした。

父親が野球を嫌いにさせないことを役割にしたのに対し、中谷監督は捕手としての厳しさを教えました。

ここでは師弟関係の中身を、両者の発言から読み解いていきます。

中学2年で決めた進学先

進学先を決めた時期が早かったことは注目に値します。

渡部海さんが中学2年の時に、中谷仁監督が智辯和歌山の監督に就任しました。

中谷監督は阪神や巨人などでプレーした捕手出身の指導者です。

この就任を受けて、渡部海さんはキャッチャーとしてプロに行くために監督に教わりたいという気持ちから進学を決めたと語っています。

前述の通り、大阪出身で元々智辯和歌山が好きだったという要素もありました。

ただ決定打になったのは、同じポジションを経験したプロ出身指導者の存在だったわけですね。

中学生が監督の就任情報を把握して進学先を決めるというのは、相当に戦略的な判断です。

父親と1軍レギュラーの約束を交わした時期と重なることを考えると、親子で進路を研究していた可能性も見えてきます。

目標を一段高く設定すると、そこへ届くための手段を具体的に探すようになるものですよね。

結果としてこの選択は、2年夏の全国制覇という形で実を結びました。

中谷仁監督の就任と、渡部海さんが進路を考え始めるタイミングがちょうど重なったことになります。

偶然のタイミングを掴み取った判断力も、この選手の持ち味だと言えそうですね。

ちなみに智辯和歌山では1学年上に中西聖輝さんが在籍しており、後に同じ大学へ進むことになります。

打たれたらキャッチャーの責任

中谷監督の指導で印象に残っていることを聞かれ、渡部海さんは厳しい言葉を挙げました。

それが、打たれたらキャッチャーの責任という教えです。

この点は凄く厳しかったですと本人が振り返るほど、徹底して言われ続けたそうです。

試合が終わった後も、キャッチャーとしてもっとできることがあったのではないかと常に考えるように言われていました。

投手が打たれた結果を捕手の責任として引き受けるという考え方ですね。

この教えは一見すると理不尽にも聞こえますが、捕手の当事者意識を極限まで高める効果があります。

ゲーム全体を自分の管理対象として捉える習慣が、ここで身についたことになります。

後にスカウトからゲームを支配していると評されるようになったのも、この原点があってこそでしょう。

父親が守った野球への愛情の上に、中谷監督が責任の重さを乗せたという構図です。

この2段構えの育成が、勝てる捕手という評価を生んだと言えます。

試合が終わった後も振り返りを求められる環境は、高校生にとって相当な負荷だったはずです。

ただその習慣が、大学で4年間マスクを被り続ける土台になりました。

渡部海さんがマスクを被った全国大会では、175回で37失点のチーム防御率1.65という数字が残っています。

責任を引き受ける立場で考え続けた結果が、こうした数字に表れているわけですね。

リードでは100点がとれる

中谷監督の言葉で、渡部海さんが今も覚えているものがもうひとつあります。

それが、配球で100点はとれないけれど、リードでは100点はとれるという言葉です。

この教えは配球とリードを明確に区別する考え方に基づいています。

本人の説明によると、配球は単純な球種とコースの選択です。

一方でリードにはサインの出し方や構え方、ジェスチャー、目線など色んな要素が含まれているとのこと。

そして短い時間の中で自分の意図をしっかりピッチャーに伝えるということが大事だと思ってやっていると語りました。

結果に左右される配球ではなく、自分で制御できるリードを完璧にすることを目指す考え方ですね。

この整理の仕方は、コントロールできるものに集中するという勝負事の原則そのものです。

渡部海さんが大学で1年春から4年間ずっと正捕手を務め続けた背景には、この考え方があったと見ていいでしょう。

投手が持ち味を発揮しやすい捕手という評価も、意図を正確に伝える技術の成果だと考えられます。

専門家の分析でも、渡部海さんとバッテリーを組んだ時に持ち味を発揮する投手が多いと指摘されています。

配球という結果論ではなく、伝達というプロセスを磨いてきた成果だと言えますよね。

中谷監督が語った評価

師である中谷監督は、高校3年時の渡部海さんをどう見ていたのでしょうか。

2022年夏の和歌山大会で高校通算36号を含む3安打4打点を記録した試合後、中谷監督は手放しで称賛しました。

語ったのは、去年の夏から不動の要としていてくれているので、心強いという言葉です。

続けて、しっかり投手をリードするのが一番だけど、このチームでは打撃でも軸になっていると評価しました。

さらに、今年は責任感を持って取り組んでいるとも述べています。

当時の主将だった岡西さんが表のボスなら、渡部海さんは裏のボスという表現も使いました。

最も印象的なのが、僕の現役時よりも全然、いいという比較です。

プロで捕手として戦った指導者が、高校生の弟子を自分より上だと認めたことになります。

そのうえで、打撃がいいし、総合力がすごく高いと評しました。

配球面はこれからもっと勉強すればいいが、基本的なことは高校生ではトップレベルだと思うと締めくくっています。

下記の表は高校時代に関わった人物の評価をまとめたものです。

人物 立場 語った内容
達人 父親 自分が子どもの時よりも上手かった
中谷仁 智辯和歌山監督 僕の現役時よりも全然、いい
中谷仁 智辯和歌山監督 基本的なことは高校生ではトップレベル
イチロー 練習に来訪 ずっと見ている

青学大で成し遂げた6連覇

高校卒業後、渡部海さんは東都大学野球の名門へ進みます。

そこで待っていたのが、1年春から正捕手でリーグ6連覇という異例の4年間でした。

東都1部で6連覇は史上2校目という記録です。

ここでは大学での実績を順を追って整理し、父親が示した目標との距離を確認していきます。

安藤監督の熱意で決めた進学

プロ志望ではなく大学進学を選んだ経緯には、師の助言がありました。

2年生の秋の大会が終わった時に、渡部海さんは中谷監督と進路について面談をしています。

本人には高校からプロを目指すという気持ちもありました。

ところが中谷監督自身が高校からドラフト1位でプロに入り、かなり苦労した経験を持っていたのです。

そこで、大学でしっかりプロで勝負できるだけの力をつけてから目指した方が良いと助言されたそうです。

この助言を受け入れ、渡部海さんは進学を決断しました。

進学先に青山学院大学を選んだ理由も具体的に語られています。

安藤寧則監督が直接高校のグラウンドまで来て、本当に熱意を持って話してくれたことが大きかったとのこと。

加えて1学年上の中西聖輝さんが同大学に進学していたことも判断材料になりました。

さらに智辯和歌山と同じで比較的少人数のチームだという点も、自分に合っていると考えたそうです。

父親が提示したNPBの1軍レギュラーという目標に対し、最短距離ではなく最適距離を選んだ判断ですよね。

高校からプロへ進めば、1年でも早く1軍の舞台に近づける可能性があります。

それでも4年間の準備期間を選んだのは、1軍で定位置を取るという最終目標から逆算したからでしょう。

1年春から正捕手で新人賞

大学での立ち上がりは、想像以上に早いものでした。

渡部海さんは1年生の春からベンチ入りし、そのまま正捕手に定着します。

主に7番・捕手で起用され、チームの17年ぶりとなるリーグ優勝に貢献しました。

個人成績は11試合で39打数11安打、打率.282で4打点という内容です。

この年にベストナインと新人賞をダブルで受賞しています。

東都大学野球は日本一レベルが高いと言われるリーグですから、1年生の正捕手は相当に異例です。

本人もそれは強く感じましたと振り返り、特にピッチャーのレベルがとても高いですと語りました。

最初の頃はとにかく、キャッチャーとして捕球する方で足を引っ張らないことだけを考えてやっていましたとも明かしています。

1年秋には3本塁打を放ち、この季が東都1部でのキャリア最多となりました。

1号は2023年9月2日に中央大の石田裕太郎さんから放った左越えソロです。

守備から入った選手が、学年を追うごとに打撃でも存在感を増していったことになります。

青山学院大学にも他のチームにも凄い選手が多くて、特にピッチャーのレベルがとても高いですと本人は語っています。

その環境でまず求められたのが、捕球で足を引っ張らないことだったわけですね。

リーグ6連覇と4度の全国制覇

渡部海さんの大学時代を象徴するのが、勝ち続けた事実です。

1年春から3年秋まで、青山学院大学は東都大学1部リーグで6連覇を達成しました。

これは東都1部で史上2校目となる記録です。

その6季すべてで、渡部海さんがマスクを被り続けました。

全国大会でも結果が続きます。

全日本大学野球選手権では1年時と2年時に連覇を果たしました。

1年時の優勝は18年ぶり5度目で、先発した常広羽也斗さんが7安打完封で胴上げ投手になっています。

明治神宮大会では2年時と3年時に連覇を達成しました。

出場した6大会のうち5大会で決勝まで進み、4大会で優勝という成績です。

全国大会の通算成績は20試合で63打数17安打、打率.270、2本塁打15打点となっています。

捕手としては175回で37失点、チーム防御率1.65という数字を残しました。

本人が野球人生で一番うれしかったこととして挙げたのは、四冠達成した時でした。

6連覇の要因について、本人はチームとしての徹底力だったと分析しています。

安藤寧則監督や中野真博コーチが本当にやるべきことを徹底してやるという姿勢で指導しており、それがチームに浸透していると語りました。

部員数が多くないこともあって、全員が日本一という目標に向かって同じ目線で取り組めているのも強みだとも述べています。

大学での主な受賞歴を整理

大学4年間の受賞と優勝を、時期ごとに並べて確認してみましょう。

以下の表で大学時代の受賞歴と優勝歴を整理してみます。

時期 受賞・実績 備考
1年春 ベストナイン・新人賞 17年ぶりのリーグ優勝に貢献
1年時 全日本大学野球選手権優勝 18年ぶり5度目の全国制覇
2年春 ベストナイン リーグ3連覇に貢献
2年時 選手権連覇・神宮大会優勝 全国2冠
2年秋 最高殊勲選手賞 打率.356でリーグ2位
3年春 ベストナイン リーグ5連覇に貢献
3年秋 神宮大会連覇 決勝で左越え3ラン
4年春 ベストナイン・主将就任 ベストナインは通算5度目

表にすると、4年間のほぼすべての季で表彰か優勝に関わっていることが分かります。

ベストナインを5度受賞した捕手というのは、東都大学野球の歴史でも限られた存在です。

2年秋には打率.356でリーグ2位に入り、1本塁打9打点で最高殊勲選手賞を受賞しました。

チームの成績と個人の表彰が同時に積み上がった4年間だったわけですね。

青山学院大学は3年連続でドラフト1位選手を2人輩出している大学でもあります。

その環境で正捕手を務め続けたという経歴が、現在の評価に直結しています。

勝ち続けた経験の総量が、この選手の最大の武器になったと言えます。

次は日の丸を背負った舞台での歩みを見ていきます。

日の丸を背負った4度の代表歴

渡部海さんの経歴で見逃せないのが、年代別日本代表での実績です。

中学3年から大学4年まで、4つの世代で日本代表に選出されています。

父親が示した目標に向かって進む過程で、国際舞台の経験も積み重ねてきたわけですね。

ここでは代表歴を年代順に追いながら、どんな役割を担ってきたのかを整理します。

中学3年のU-15代表で優勝

最初の代表選出は中学3年の秋でした。

2019年のU-15アジアチャレンジマッチに、背番号12の捕手として選出されています。

当時の体格は178cm77kgで、中学生としては十分に大きな部類です。

この大会で日本は優勝を飾り、渡部海さんは初めての代表で世界一の経験を手にしました。

監督を務めたのは元プロ野球選手の鹿取義隆さんです。

同じ代表には海老根優大さんや井坪陽生さんといった、後にプロへ進む選手も名を連ねていました。

中学生で全国トップの同世代と肩を並べた経験は、進路選択にも影響したはずです。

前述の通り、この時期に渡部海さんは父親とNPBの1軍レギュラーという目標を共有していました。

代表のユニフォームを着た実感が、目標を現実的なものに変えたとも考えられますよね。

この大会の日本代表には捕手が3人登録されており、渡部海さんはその一人でした。

中学時代の所属は硬式の住吉ボーイズで、大阪市立大和川中学校に通っています。

軟式のクラブチームから硬式へ移って間もない時期に、代表の座を掴んだことになります。

父親がコーチとして関わった軟式時代の土台が、硬式でも通用したという証明ですね。

この年代別代表という経験は、以降の4年間で何度も繰り返されることになります。

U-18でサードに回された悔しさ

2つ目の代表は高校3年時でした。

2022年の第30回WBSC U-18ベースボールワールドカップに、背番号12で選出されています。

当時の体格は179cm80kgで、ポジションは捕手登録でした。

ところがこの大会で渡部海さんは、主に5番・三塁手として起用されることになります。

代表には松尾汐恩さんと野田海人さんという2人の捕手が同時に選ばれていたためです。

9試合中8試合に先発しましたが、本職のマスクを被る機会は限られました。

個人成績は20打数5安打で打率.250、3打点という内容です。

3位決定戦の韓国戦では6対2の勝利に2安打2打点で貢献し、チームは銅メダルを獲得しました。

この経験について、本人は後に明確な言葉を残しています。

野球人生で一番悔しかったこととして挙げたのが、U-18でサードに回された事でした。

捕手としてプロへ行くという意志の強さが、そのまま表れた回答ですよね。

なお高校1年秋には三塁手で1番を打っていた選手ですから、対応力そのものは持っていたわけです。

この時期の代表アンケートで、実際に対戦した中で一番すごいと思った選手として挙げたのは小園投手でした。

同世代には松尾汐恩さんや浅野翔吾さんといった、後にドラフト1位でプロへ進む選手が揃っていました。

日米大学野球とWCBC制覇

大学では3年時と4年時に大学日本代表へ選ばれました。

3年時の2025年は第45回日米大学野球選手権大会に背番号20で出場しています。

5試合のうち4試合で6番・捕手を担い、16打数3安打で打率.188、3打点という成績でした。

木製バットとアメリカ代表の投手陣を相手に、数字は伸び悩んだ形です。

この大会に臨む際、本人はアメリカ代表に自分の力がどれだけ通用するのか試したいと語っていました。

そして4年時の2026年、ワールドカレッジベースボールチャンピオンシップで主将を任されます。

背番号1を付け、4番として打線の中心に座りました。

この大会で渡部海さんは12打数6安打で打率.500、出塁率.647という圧倒的な数字を残しています。

決勝のアメリカ戦では、最速158キロ左腕のヴァリンシウス投手から内寄り154キロの球を捉えて左翼への二塁打を放ちました。

日本は優勝し、渡部海さんは初代王者の主将という肩書きを手にしました。

本人は台風の影響で日程が変わったこともあり難しい戦いでしたと振り返りつつ、投手も野手も全員力を発揮できたのが良かったですと語っています。

監督やコーチ陣とも密にコミュニケーションをとって、短期間の中で目指す野球をチームに浸透させることを意識していましたとも述べました。

代表歴を表で整理

4度の代表歴を、年代順に並べて確認しておきましょう。

下記の表は代表歴をまとめたものです。

年 大会 背番号 起用 結果
2019年 U-15アジアチャレンジマッチ 12 捕手 優勝
2022年 U-18ベースボールワールドカップ 12 5番・三塁手 銅メダル
2025年 第45回日米大学野球選手権 20 6番・捕手 日本が3連勝で制す
2026年 ワールドカレッジベースボール選手権 1 主将・4番 優勝

国際大会の通算成績は9試合で28打数9安打、打率.321という内容です。

出塁率.424、長打率.464という数字も残しており、国際大会での対応力の高さが見えます。

木製バットと海外の投手を相手にこの数字ですから、プロの環境への適応も期待できますよね。

表を見ると、選出された大会ではすべてチームが優勝またはメダルを獲得しています。

勝てる捕手という評価が、代表レベルでも裏付けられていることになります。

体格の変化も興味深いところです。

U-15の時は178cm77kgでしたが、大学4年時には180cm92kgまで体を大きくしました。

身長はほぼ変わらないまま、体重だけで15kg増えたことになります。

捕手として求められる体の強さを、計画的に積み上げてきた結果だと言えます。

打撃が覚醒した4年目の数字

ここ、ドラフトを語るうえで最も議論される部分です。

渡部海さんは勝てる捕手として高い評価を得ていますが、大学通算打率は.252という数字にとどまっていました。

その評価を一変させたのが、4年目に見せた打撃内容の変化です。

ここでは数字の中身を年度別に分解して、何が変わったのかを整理していきます。

大学通算打率は.252という現実

まず前提となる数字を確認しておきましょう。

東都大学1部リーグでの通算成績は、82試合で274打数69安打です。

打率.252、9本塁打42打点、出塁率.343、長打率.420という内容になります。

全国大会を含めた別の集計では、95試合385打席で打率.250、OPS.756、10本塁打という数字が示されています。

捕手としては打てる部類ですが、野手全体の1位候補として打撃だけで圧倒する数字ではありません。

年度ごとの波も大きいものでした。

1年秋は34打数6安打で打率.176、2年春は39打数7安打で打率.179と苦しんでいます。

3年秋も44打数7安打で打率.159という数字です。

一方で2年秋は45打数16安打で打率.356を記録し、リーグ2位に入ってMVPを獲得しました。

3年春も34打数11安打で打率.324をマークしています。

好不調の振れ幅が大きいことが、評価を難しくしていた要因だったわけですね。

特に大学2年春は39打数7安打で出塁率も.179にとどまり、四球がありませんでした。

2024年のシーズン全体でも124打席で四球は2個だけで、四球率は1.6%という数字です。

打席の中身という観点で見ると、この時期は明らかに改善の余地があったことになります。

4年目に出塁率が跳ね上がった

そして最終学年で、数字の質が明確に変わります。

2026年春のリーグ戦は12試合で39打数11安打、打率.282という数字でした。

打率だけ見れば1年春と同水準ですが、中身がまったく違いました。

この春、渡部海さんは12試合で14個の四死球を選んでいます。

結果として出塁率は.472まで跳ね上がりました。

1年春の出塁率.349、2年春の.179と比べると、別人のような数字ですよね。

打点も10を記録し、この季のチーム打線を支えています。

全国大会を含めた集計では、2026年の72打席で打率.309、出塁率.451、長打率.545、OPS.996という数字が示されました。

三振率は9.7%まで下がり、四球率は13.9%まで上がっています。

2024年が124打席で2四球、四球率1.6%だったことを考えると、劇的な改善です。

三振率も12.1%から9.7%へ下がりましたので、選球眼とコンタクト能力が同時に向上したことになります。

四球が10個に増えて三振が減ったという組み合わせは、打者としての成熟を示す典型的な変化です。

年度別で見ると、2023年がOPS.697、2024年が.687、2025年が.735でした。

そこから2026年に.996まで跳ね上がったわけですから、変化の幅は相当に大きいですよね。

四球と長打が同時に増えた理由

ここで気になるのが、四球が増えた理由ですよね。

単純に相手が勝負を避けただけなら、評価としては割り引く必要があります。

ただ2026年のデータは、その見方だけでは説明がつきません。

長打率から打率を引いたISOという指標が.236という数字を示しているのです。

これはストライクを打った時の長打が同時に増えていることを意味します。

つまり待って歩いただけではなく、甘い球を確実に長打にしていたわけですね。

実際に2026年は印象的な一発が並びました。

5月7日の東洋大戦では9回1死満塁から小澤頼人さんの初球ストレートを左翼席へ運び、満塁本塁打を記録しています。

9月8日の中央大戦では7回1死に内角の直球を捉えて左翼席へソロを放ちました。

9月18日の東洋大戦では谷光希さんから左翼線へ3ランを放っています。

これで東都1部リーグ通算本塁打は11本に到達しました。

2026年秋も9月18日時点で4試合16打数6安打、打率.273に2本塁打5打点という内容です。

この4試合で出塁率は.412、長打率は.813という数字を記録しました。

打順は4番で固定され、打線の中心として起用され続けています。

ただ72打席という数字が、大学通算385打席を上書きするわけではありません。

上位で指名する球団は、プロで打率が落ちても四球と長打を残せるかを見極める必要があるという指摘もあります。

年度別成績を表で整理

東都大学1部リーグでの成績を、季ごとに並べて確認してみましょう。

以下の表でリーグ戦の年度別成績を整理してみます。

シーズン 試合 打率 本塁打 打点 出塁率
1年春 11 .282 0 4 .349
1年秋 12 .176 3 5 .300
2年春 12 .179 1 2 .179
2年秋 13 .356 1 9 .408
3年春 10 .324 2 7 .395
3年秋 12 .159 1 5 .260
4年春 12 .282 1 10 .472
通算 82 .252 9 42 .343

打順の内訳を見ると、4番で30試合、7番で25試合、8番で14試合という起用でした。

さらに6番で8試合、5番で3試合という内訳になっています。

1年生の頃は下位打線、最終学年では4番という変化がそのまま数字に表れていますね。

守備については81試合すべてで捕手として出場しました。

4年間で一度も他のポジションに回らなかったという点は、評価の安定を示しています。

東都1部での通算本塁打は、2026年秋の2本を加えて11本に達しました。

最も多かったのは1年秋の3本で、1年目からすでに長打力を示していたことになります。

本塁打の内訳を見ると、11本すべてが左方向への打球でした。

全身を使ったフルスイングで豪快に引っ張る打撃が持ち味という評価そのままの数字ですね。

スカウトが絶賛する勝てる捕手

最後に、プロのスカウトが渡部海さんをどう見ているのかを確認しておきましょう。

2026年9月の試合には、NPB11球団のスカウトが集結しました。

そこで飛び出したコメントには、ある共通点があります。

ここでは各球団の評価を具体的に並べながら、ドラフト1位候補と言われる理由を整理します。

11球団が集まった2026年9月

2026年9月8日の中央大戦は、異例の光景になりました。

この試合にNPB11球団のスカウトがネット裏に並んだのです。

阪神は竹内球団副本部長を含む4人態勢で視察に訪れました。

横浜DeNAはさらに踏み込み、異例の6人態勢で臨んでいます。

そして渡部海さんは、その視線の前で左翼席へのソロ本塁打を放ちました。

チームは5対2で中央大に先勝しています。

10日後の9月18日には、楽天の吉井理人監督と石井一久GMが揃って視察に訪れました。

現場のトップが揃って足を運ぶというのは、評価の高さを示す分かりやすい指標ですよね。

この試合でも渡部海さんは左翼線へ3ランを放ち、期待に応えています。

楽天の部坂俊之スカウトはこの一発について、プロでも攻められるだろうけど、あそこを打てたことは大きいと評価しました。

注目が集まる試合で結果を出し続けられるのは、高校から勝負どころを経験してきた蓄積があるからでしょう。

2026年春にも印象的な一打がありました。

5月7日の東洋大戦で9回1死満塁から満塁本塁打を放ち、ネット裏のスカウト陣の前でダメ押し点を叩き出しています。

父親がスタンドで息子を見守ってきた場所に、今はプロのスカウトが並んでいることになります。

スカウトが口を揃えた総合力

各球団の評価を見ると、言葉は違っても指している中身は同じでした。

巨人の榑松スカウトディレクターは、ゲームを支配していると評しています。

そのうえで、経験もあって落ち着いて見ていられると続けました。

楽天の部坂俊之スカウトは、高校からずっと勝ち続けている勝てるキャッチャーという表現を使いました。

加えて、頭がいいという評価も口にしています。

打撃面についても、ツボに入ったときは長打を打てるパンチ力があると指摘しました。

肩も強いと評し、スローイングも早いとも述べています。

そして総合力があると締めくくりました。

オリックスの岡崎スカウトの言葉はさらに踏み込んだものです。

打った、打たないで評価される選手ではないと前置きしたうえで、勝てる捕手として信頼も厚いし、人間性も含めて期待している選手と語りました。

横浜DeNAの稲嶺茂夫スカウトは、経験値がずば抜けていると舌を巻いています。

どの捕手と比べても経験値がずばぬけていますとも述べ、捕手としての総合力が高いと評価しました。

各球団のコメントに共通しているのは、打撃成績ではなく試合を作る力への評価という点です。

打った、打たないで評価される選手ではないという言葉が、その共通認識を端的に表しています。

1秒85の二塁送球という武器

技術面で最も評価されているのが、二塁への送球です。

渡部海さんの二塁送球タイムは最速1秒85を計測しています。

この数字は大学1年秋と3年秋の明治神宮大会で計測されています。

高校時代は2秒前後でしたので、大学で明確に短縮されたことになります。

専門家の分析によると、この速さを支えているのは巧みなハンドリングと足を使えるフットワークです。

捕球してからリリースするまでのスピードは圧倒的ながら、上半身の力だけに頼っていません。

下半身を使って投げられるため、二塁ベース付近でボールの勢いが落ちないという評価です。

そのため単なる強肩という言葉では片付けられない迫力があると評されています。

キャッチングについても、下級生の頃は少し雑な部分があったものの、しっかりミットを止めて捕球するようになりました。

投手に返球するリズムの良さも特長として挙げられています。

遠投は100m、50m走は6秒4という身体能力の数字も残っています。

父親がコーチとして捕手の基礎を教えた小学生時代から、約15年かけて磨かれた技術ですよね。

2026年の国際大会でも台湾戦で1秒95を計測しており、本番でも数字が落ちていません。

盗塁を刺す場面では、走者のスタートが悪くないケースでも余裕を持ってアウトにしていると評されています。

ドラフト1位候補としての評価

そして現在、渡部海さんは2026年ドラフトの1位候補として名前が挙がっています。

ソフトバンクの永井智浩編成育成本部本部長は、確実に上位に入ってくるよと語りました。

そのうえで攻守ともに好バランス型だと評し、うちに来たら、また競争やけど、いい感じにはまると思うでと続けています。

ヤクルトの余田スカウトも、攻守にわたってレベルが高いと評価しました。

注目すべきは、ドラフトの歴史における位置づけです。

長いドラフト会議の歴史の中で、大学生捕手が1位指名で競合したことは一度もありません。

二度に分けて行われた1966年の二次ドラフトで立教大の槌田誠さんが巨人と南海から1位指名を受けた例はありますが、全選手が指名対象となったケースではありませんでした。

つまり渡部海さんが競合すれば、ドラフト史に残る出来事になるわけです。

本人の視線はすでにその先を見ています。

大学4年間をやり切って、ドラフト1位でプロに行くと明言し、そこで活躍できるように下積みをしていきたいと語りました。

さらに、バッティングの能力が上がってこないと、自分としての価値もなくなってしまうと自らに課題を課しています。

打てるキャッチャーというのは貴重な存在ですから、自分がそうなれるようにスキルアップしていきたいとも述べました。

父親が中学生の息子に示したNPBの1軍のレギュラーという約束は、いよいよ現実の入口にたどり着こうとしています。

スカウト評価を表で整理

各球団の評価を、球団ごとに並べて確認しておきましょう。

以下の表で各球団の評価を整理してみます。

球団 評価者 コメント
巨人 榑松スカウトディレクター ゲームを支配している
楽天 部坂俊之スカウト 勝てるキャッチャー・頭がいい
オリックス 岡崎スカウト 人間性も含めて期待している選手
横浜DeNA 稲嶺茂夫スカウト 経験値がずば抜けている
ソフトバンク 永井智浩本部長 確実に上位に入ってくるよ
ヤクルト 余田スカウト 攻守にわたってレベルが高い

表にすると、6球団が公の場で具体的な評価を語っていることが分かります。

これだけ複数の球団からコメントが出ている大学生捕手は、近年でも例が少ないはずです。

評価の軸はいずれも打撃成績ではなく、総合力と経験値に置かれていました。

父親が中学生の息子に示したNPBの1軍のレギュラーという目標に、最も近い評価のされ方ですよね。

渡部海さんは、この先、プロに入ったら長くプレーできる選手になりたいと語っています。

ドラフトは強く意識していませんがと前置きしながらも、視線はその先に向いています。

父親・達人さんがスタンドで祈っていた日から、評価は着実に積み上がってきました。

新しい情報が出てくれば、この記事も随時更新していきます。

渡部海の父親・達人と約束の総まとめ

  • 渡部海の父親は達人という名前で読み方までは公表なし
  • 父親は大学まで野球経験があるが職業は公表されていない
  • 息子が小学生時代のクラブチームでコーチを務めていた
  • 僕の役割は野球を嫌いにさせないことだけと語っていた
  • プロ野球選手になりたい発言にそれなら止めておこうと返答
  • 父親の真意はNPBの1軍のレギュラーになろうという提案
  • 幼少期は阪神のユニで保育園に通い公園で野球をねだった
  • 東都リーグ通算は82試合で打率.252と9本塁打である
  • 神宮大会決勝で決勝の左越え3ランを放ちチームは連覇
  • 父親は興奮して一瞬頭が真っ白になりましたと振り返った
  • 高校から寮生活でたまにしか会わないと父親は明かした
  • 智辯和歌山では中谷仁監督の下で2年夏に全国制覇を達成
  • 青山学院大では1年春から正捕手でリーグ6連覇を達成した
  • 大学4年時はWCBCで主将を務め打率5割をマークした
  • 2026年ドラフトでは複数球団が1位候補として注目する

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